善敬寺略史(草創期)
当寺は、北信における飯田寂円系の弟子であり、本願寺三世覚如上人(1270−1351)の弟子になった善教により現在地に草庵を創建する事に始まる。
覚如上人
1293年(永仁1) 覚如上人の御縁によって、上人法友の『親鸞聖人絵伝』画工・西仏上人開基の康楽寺(長野市篠ノ井塩崎)二世浄賀が、その次子浄連をこの庵の院主に送り、康楽寺系「善敬寺」が開基する。
1319年(元応1)5月 善教は、覚如上人とその長子存覚上人(1290−1373)の三河から越後への御下向の節、覚如上人に帰依し上京する。(『存覚一代記』)
1351年(観応2)1月 善教は、覚如上人浄土還帰の葬儀に参列、名を連ねる。(『墓帰絵詞・存覚上人袖日記』)
1371年(応安4) 師覚如上人作『本願鈔』の存覚上人書写本を賜る。
1576年(天正4) 織田信長の大坂石山本願寺攻略には、信濃浄土真宗寺院20数ヵ寺が、塩崎康楽寺弐百俵を筆頭に、当山善敬寺も十俵壱斗とわずかではあるが、兵糧米を勧進し、顕如上人本願寺へ献納する。(須坂市『勝善寺文書』)
その後、浄土真宗の北信濃方面の中心寺院として、寺内末寺4ヵ寺、地区外掛所3ヵ寺を開く。
          
顕如上人 織田信長
1736年(元文1) 現在の本堂を再建する。(江戸中期)
1813年(文化10) 一茶、白鳥山の鐘を聞き信濃町柏原へ帰省する。(句文集『志多良』)